
著:たくみ けいすけ
少年時代
第09話 フライフィッシング
この年の夏、断続的だが休暇をとり、妻と一緒に私は、熊本県は小国町の一軒家に滞在するチャンスに恵まれた。この町は阿蘇の外輪山に接していて、大変静かで自然に包まれた環境に位置している。
森林に覆われ、天を仰げば、空が狭いような感じさえ受ける。
妻とは3月に結婚したばかりだったので、あちこち散策してみたいといつも思ってはいたのだが、この町から賑やかな市街地へ出かけるには結構時間もかかり、なんとなく億劫になる。
ならば、釣りしかない。
いや、釣りをするのに絶好の環境の中に私は生活しているのである。
フライフィツシングしかないと、この時ばかり、私は決心した。
家の近くには、大分県の津江山系を流れる鯛王川と川原川があった。
2本の川についての情報を集め、川の状態を調べ、私は、川原川に目標を定め、実際のフィールドでのフライフィッシングを始めた。
一日のスケジュールは毎日決まっていて、朝マズメまでに釣り場に到着できるように起床し、日差しがきつくなれば、さっさと帰宅。
昼はフライタイイングに没頭し、エネルギーと妻の承諾さえあれば、夕マズメはまた川原川へと車を走らせる。
お陰でこの川の大石の場所や流れの強弱、好ポイントの位置など、細かい事まで私の頭脳にインプットさせる事ができた。
平地でのキャスティングの練習は勿論大切なのだが、川の流れを前にしてフライをキャストすることも重要である。
陸地にはない、水の動きに対応する手段を少しずつ身につけてゆく自分を感じる事ができたからである。
また、木の枝を避けるための、平地ではあまり試さないサイドからのキャストや、ドラグ回避のためのメンディング等、欠かす事のできないテクニックを自然に体得する事ができる。
しかし、結果が出ないと、今実行している事が正しいのか間違っているのか分からない。
これは、釣りに限らず社会生活一般に言える事だと思うのだが、一匹のヤマメを得るまで、私は疑い続けるしかなかった。
キャスティングは勿論、スタンスの取り方、使用フライ、その他いろいろ。
一度も成功した事がない場合、条件の組み合わせは、これでいいのか分からない。
しかし、凄いスピードでフライフィッシングの世界にはまり込んでいく自分を感じていた。
20回ぐらいは通っただろうか。
川原川の魚たちの何匹かが、私のフライに挨拶してくれるようになってきた。
だんだん、この川のヤマメたちが、私のフライフィッシングを理解して歓迎してくれるようになってきた。
時折、バシッと、丹念に巻いた自慢のドライフライに反応してくれるのだが、私の手元まで挨拶に来てくれない。
悔しさが頭痛に変わりそうだ。
そんな時、思わしくない天気を証明するかのように、テレビの気象情報が台風の接近を知らせていた。

九州は台風の通り道で、年に何度かその爪跡を残す。
渇水の季節、雨は魚たちを活性化させ、濁りがとれた渓には、狂った魚たちで賑わうという。
釣りに行きたい気持ちを雨音を聞くたびに抑え、大雨が去った2日後、私はいつもの川へ出かけたのだった。
見慣れた谷は、みずみずしく様変わりを遂げ、透き通った流れは、渓相をも変身させたかのようであった。
小さなポイントがなくなり、私は大場所をロングキャストで狙う釣りをせざるを得なかった。
大雨の後、だれか釣りに訪れた形跡もない。
私は、初雪のゲレンデを我一人滑る気分を味わっていた。
「魚の出はいい。なんとかなりそう」と、独り言を言いながら、いつもはない鏡のような広いポイントが、河原を挟んで左側に生まれていた。
私は静かに近づき、最高のポイントの30p上流を正確に見定めて、慎重にディアへアカディスを落とした。
数センチ、フライを流した時、ゆつくりと口を開けて魚が出た。
ドキッとした私は、慌ててしまい、魚がフライをくわえる前にロッドを立ててしまった。最悪である。
「このドジ」と、自分に歯ぎしりしながら、もう一度キャスト。
また魚はゆっくり浮上してきて、フライをくわえよえとした瞬間、またもやロッドとラインを引っ張ってしまった。
「何をやってんだ!」もう頭の中はパニック状態。
目の前には、口をのんびり開けてフライを吸い込みたくてたまらない警戒心のない魚がいるというのに。
気持ちを落ち着けるために、私は煙草に火を付けた。
まだ、焦っている。
その証拠にフィルター付近までアッという間に細長い炎が近づいてきている。
時間稼ぎが必要だ。
そこで、カディスは見破られるのではないかと考え、フライを交換してみる事にした。
パラシュートフライを結んだのだが、自信はない。
二度あることは三度あるとも言う。
私は、先ほどのディアヘアカディスに再度つなぎ直し、大きな深呼吸をくり返し、集中力を高め、目標ポイントを再び正確に狙った。
時間は止まった。
魚がフライをくわえ、水中に戻っていくまでの動きをスローモーションのイメージ通りに私の目が捕らえた瞬間、4番ロッドは初めて大きく弓なりの曲線を描き、とうとう私は魚との感激の対面を果たす事ができた。
22pの夏ヤマメは、異常に大きく綺麗に見えた。
この日から、私のフライフィッシングにも好調の兆しが見えてきた。
今までのうっぷんが一気に晴れたような、なんともすがすがしい気分だった。
努力が実り、やってて良かったとつくづく思った。
ヤマメの魚体を手にするたび、爽やかな風が吹き抜けていった。