
著:たくみ けいすけ
1986年
第29話 シーラカンス
夏が過ぎ、季節は秋へ移ろうとしている。前々から密かに自分の心の中で思いを膨らませていた場所へ、私は初めて足を踏み入れた。
江川ダムのトラウトである。
まだ一度も行ったことのないこのダム湖のことを思い浮かべるだけで、なぜか私の気持ちは高ぶった。
自宅から40分、9月14日、日曜日、初めての江川ダムが私の前に現れた。
私はまず、ダム湖のほぼ全貌が見渡せる高台に車を止め、静かな水面を眺めながら、湖に吹く風を体一杯に吸い込んだ。
左手には、小屋の下からコンクリートの道が水中へと向かって伸び、対岸には植林と林の下に人造湖特有の土の小山がいくつも連なっていた。
少し車を走らせると、江川山荘という食堂があり、その付近がダム湖の流れ込みとなっていた。
そこでは数人のルアーマンが、早くもマス狙いなのか、盛んにスプーンをキャストしていた。
外国製の凄いタックルを使用していた人がブラックバスをヒットさせたのを見たぐらいで、釣り人の目を引くような魚の気配はなかった。
この日は、ほんの様子伺い程度にとどめて、私はゆっくりと車を自宅へと向かわせた。
そして、私が初めて江川ダムでロッドにリールをセットしたのは、10月10日の早朝だった。
4時の目覚まし時計のベルとともに飛び起き、私は先日数人の釣り人を見た山荘の下へと急いだ。
薄暗い斜面を下りていくと、既に3人の釣り人がロッドを出していた。一人はコイの投げ釣り、2人はルアーフィッシング。
左手の袖をめくって時計を見ると、2本の針は午前5時半を指していた。
水温は17度、盛んに小魚のライズが始まり、ルアーをキャストする頃には、すでに明るくなってきた。
先に来ていた3人の釣り人の姿もはっきり確認することができるようになった、午前6時半、ルアーをキャストしていた一人が40cm程のサクラマスを掛け、静かな湖面を前にして何やら大声で叫びだした。
感動が感激を呼び起こし、魚を釣った男性は、彼の相棒に興奮さめやらぬ様子で何か早口で喋っている。
私の立っている地点から10mも離れていない所でのヒットである。
釣り人とはおかしなもので、こんな時、俄然やる気が沸いてくるものである。
私の眠気は一瞬に覚め、当然ルアーを投げまくった。
背中の筋肉の張りが気になりだした午前8時半、私のロッドに物凄いアタリ。
14mのスプーンをひったくった奴は、今まで体験したことのないパワーでラインを引き出し、ドラグをギーギー鳴らし始めた。
隣の投げ釣りの糸に絡みそうでハラハラさせられながら、「江川ダムのニジマスの引きは、さすがに凄いなぁ」と、やりとりも5分程になると、さすがに私は興奮状態に陥っていた。
やっと足元に寄せてびっくり。
意外や意外。
私のフックを奪った奴は、色も鱗も所々はげ落ちた、シーラカンスを思わせる90cmを優に超える雷魚だった。
サクラマスを釣り上げた彼も、私の魚とのやりとりを眺めながら駆け寄ってきたらしく、「こんな魚を初めて見た」と讃えてはくれたが、私の落胆は激しかった。
魚を見て、膝がガクガクするのと同時に、身体から力も思いっきり抜けていった。
ロッドをしまい、このダムには雷魚もサクラマスも生存している事を確認して、私は疲れた身体できつい斜面を登った。