
著:たくみ けいすけ
1987年
第35話 焦り
8月3日、私はT氏と、まだ暗い江川ダムへ通じる道をひた走っていた。
狙いはブラウントラウトである。
行きつけの釣具店で仕入れた情報によれば、スプーンを遠投してしばらくカウントダウンさせた後、スローに引いてくると、小型のブラウントラウトがヒットするというのである。
放流後日の浅い25〜30cmのマスなのだが、トラウト狙いの私にとって、このチャンスを見逃すわけにはいかなかった。
というわけで、ダム湖に着いたのは午前4時20分。
いくら夏真っ盛りとはいえ湖が何処にあるのかさえ分からないくらい辺りは墨汁のビンをひっくり返したように真っ暗。
魚たちもまだ睡眠中なのか、水音さえ聞こえてこない。
私の感覚に入ってくる刺激は、微風と虫の鳴き声と肌を刺す蚊の痛みだけで、他には何もない。
ロッドを握るには少々早すぎる。
T氏は職場の同僚で、大変私とうまが合い、何かと職場内外を問わず共に行動する友人であった。
これまで何度か私と釣りに行ったことがあるのだが、彼はまだ一匹も魚を釣ったことがなかった。
彼自身もさらさら魚を釣る気もないようで、彼は単に気晴らしのドライブ好きなのか、私が誘えば断りもせず同行してくれる人であった。
夜中に起こされ、ダム湖に着いても真っ暗だなんて、T氏にとっては大迷惑。
だが、人柄の素晴らしいT氏は文句一つ言わず、車の中で再び眠りについていた。
午前5時半、私たちは通称ボート小屋下に入り、キャスティングを始めた。 雲ひとつない空に太陽が昇ると、じりじりと皮膚が痛い。
午前7時15分、やっぱりだめかと思いつつ、10・のゼブラ模様のスプーンをロングキャスト後、20カウントダウン。
そして、ゆつくり引いてきて、岸まで5・という地点でまさかのヒット。
あまりにも近距離でのヒットに、私はアワセを忘れ、そのまま左手のハンドルをグルグル回し、足元の魚を抜き上げようとした。
こんな時に限って、唐突な場面に対応できない自分の未熟さと焦りが一挙に出てしまうものである。
魚は口に異物を感じ、空気中へ引きずり出されたことに物凄い違和感を覚えたのか、蓄積していた全身の力を爆発させ、思いっきり体をくねくねと、まるで空中を泳ぐように動かし始めた。
そして、見事に私のトリプルフックを外し、水中へと帰っていったのである。
25cm程のブラウントラウトを落としてしまい、友人には苦笑いを浮かべる私だったのだが、心中穏やかではなかった。
なぜ、フックを研ぐのを怠ったのか。
なぜ、きちんとしたアワセをしなかったのか。
だんだん自分に対して腹が立ってくる。
全て私自身の焦りがもたらした失敗に終わり、この日、小型ではあったが、ブラウントラウトとの対面はお預けとなった。