
著:たくみ けいすけ
1990年
第50話 椎葉5
夏真っ盛り、会長と私にとって、今年も椎葉の季節がやってきた。8月2日の朝を、私は最高の気分で迎えていた。
会長も私も、いつものフィールドを離れ、思う存分全てを忘れ、釣りに明け暮れることができる解放感を求めるだろう。
また、この年の春、私は中古だが小型四輪駆動車を購入し、この車で椎葉へ向かえるのも楽しみの一つにしていた。
到着後、アッという間にテントのセッティングも完了し、私たちは早速、本流の夕マズメを攻めた。
昨年とは打って変わって川のコンディションも良く、会長のルアーには面白いようにパーマークの鮮やかなヤマメたちが顔を出してくれた。
サイズこそ20cm足らずの魚たちだが、会長は短時間の間に10匹以上のヤマメをキャッチし、リリースを見せてくれた。
この頃私は、会長のことを「バスプロ」と呼んでいたのだが、私が彼と同じようにルアーのキャスティングを試みたとしても、こううまく魚をキャッチすることができただろうか。
狙ったポイントへの正確なアプローチと巧みなリーリング。
これが「バスプロ」の精密機械のような釣り方なのである。
実は私も、この日、椎葉での初日ということもあって、会長と同じようにスピナーをキャストしてみたのだが、23cmのグラマラスな奴こそ掛けたものの、数では、会長の半分にも至らなかった。
一日目は二人ともヤマメご飯と塩焼きをつつきながら、美味しい酒を飲みかわし、シュラフにくるまり心地よい眠りについた。
次の日、午前4時30分の起床。
前日の釣果の影響もあってか、私たちは気分爽快な椎葉の朝を迎えた。
朝食をとり、タックルをトランクに詰め込み、車のヘッドライトを照らしながら支流の水無川をめざした。
到着してびっくり、その名のとおり水無川に水がない。
この年の異常渇水は、貴重な魚の住む川を一本ダメにしてしまうほど激しかったのである。
私たちは呆然と、あらわになった川底や突き出た岩肌を前に、自然現象の凄まじさを思い知らされた。
水量の減少にともない、水温は季節の移り変わりとともに上昇したはずである。
魚たちはどうしているのだろう。
ふと、そんなことを思いながら、私たちは本流へと移動した。
椎葉、尾前川。
この川は、もの凄い貯水量を誇り、深い森と複雑な地形をなす椎葉ダム湖へと注ぎ込む。
巨大な岩、そして豊富な水量は、時折釣り人の行く手を遮り、湖から遡上するサクラマスに魅了され、この地を訪れたアングラーも少なくないだろう。
しかし、この年の尾前川は、その流れに釣り人が圧倒されるエネルギーを発するものではなかった。
点在するポイントは絞りやすく、対岸へ流れを横切ることだって容易にできた。
いつもなら、絶対に不可能で無理なことが、簡単にできる状態になっていた。
私たちは、やむを得ず支流を諦めて本流へと向かった。
小さな学校の小さなグラウンドの脇を通り川へ下りると、渇水で浅くなったプールに泳ぐ一匹の大きな魚を見つけた。
川でこんな大きな魚を目撃したのは初めてで、私は思わず大声を上げてしまった。
もう釣りどころではない。
会長は川の中へ入り込み、その魚を手づかみにしようとしている。
小さく見積もっても40cmはあろうか、まさしく目の前に泳ぐのは椎葉のサクラマスなのである。
だが、少雨と高温と酸素欠乏のためか、だいぶ身体が弱っていて、浅場でその立派な体を横たえている。
意識もはっきりしない様子だったが、危険を察知してか、サクラマスは野性で培った力をふりしぼり、私たちの視界から外れ、下流へと消えていってしまった。
ロッドを手にしたまま川辺を歩いていると、そこが禁漁区域であると分かり、日は高くなってきているのに、フライやルアーを水面に一度も落とすことなく、私たちは車に戻り上流へと移動した。
さて、私たちは、道路脇にあるゲートボール場付近まで来ると、先ほどのサクラマスの姿がどうしても脳裏から離れずに、ロッドを握りたい気持ちを抑えていた。車を狭いスペースに止め、じわじわと背中を刺す日差しを感じながら、涼しい川の流れへと急いだ。
ここでも会長、いや「バスプロ」は絶好調。
まずは25cmのニジマスをキャッチし、十数匹の小型のヤマメは全てリリース。
ワンキャスト、ワンフィッシュのペースで彼は釣り歩く。
私は小さな奴がフライを食い上げる空中戦に悩み、なかなか一匹をフッキングさせきれない。
打者が変化球によってバッティングのポイントを乱されたかのように、良型サイズのヤマメがゆつくりフライをくわえても、小型ヤマメの動きに惑わされていた私には、アワセが効かない。
どれくらいの時間がたったのだろうか。
焦りが蓄積され、重くなった頭をゆっくり持ち上げてみると、私の目の前には尾前川最大の大堰堤が迫っていた。
日はすっかり昇り、肌を突き刺す暑さが、苦しみに変わっていく。
私は、深く被っていた帽子を取り、汗びっしょりになった全身を冷たい谷川の流れで冷やした。
私たちは、キャンプ地へ戻ると昼食を済ませ、木陰に腰かけながら浅い眠りについた。
蝉や鳥、そして絶え間なく流れる川の音に包まれながら、私たちはお互い無言の時を過ごした。
例年の本流の流れに比べ、大変釣りやすいことは、実際に渓流を歩いてみて分かったのだが、同時に、支流や下流部においては、あまり納得のいく成果が得られないようにも思えた。
そこで私たちは、夕マズメをキャンプ地より上流から入渓し、丹念にポイントを攻める作戦を立てた。
午後4時40分、早速私の12番のドライフライに22cmのヤマメがヒット。
14番のブラウンセッジには20cmがフッキングし、幸先の良い午後のスタートを切れた。
2匹のヤマメの胃袋に、蝉やクモが形をはつきり残したまま納められていたのには少々驚かされた。
その後も20cm級の魚がドライフライに反応したのだが、そう全てうまくいかないのが、フライフィッシングの尽きぬ魅力なのだろう。
納得のいく釣りさえできれば、小さなヤマメとの空中戦だって、スリルに満ちていた。
会長は相変わらず、キャッチ&リリースを慣れた手つきで展開していた。
そして私たちは、食卓用に3匹の魚を手に持ち、キャンプ地へと戻った。
夕食は、会長特製ヤマメ、いやニジマスご飯の炊ける匂いに誘われ、美味しい酒とヤマメの塩焼きを味わいながら、私たちは長い夜を語り合った。
仕事のこと、家族のこと、動物や植物、政治・経済・社会のこと、不平や不満、昔のことや将来のこと。
そんな話が、気持ちよい酒を飲むたび、ぐるりぐるりと繰り返され他。
ランタンの明かりに引き寄せられてやってくる虫たちと、すみきった空気の層に、穏やかな光線を放つ無数の星たちの輝く夜空を眺めながら―。
3日目、私たちは朝早く飛び起きた。
太陽が昇り始める頃になると、私たちは椎葉の地を後にしなければならなかったからである。
真っ暗な朝、私たちはランタンに火を灯し、熱いコーヒーを沸かし、軽く朝食を済ませると、ウェーディングシューズの紐をきつく締めた。
冷たくて湿った森の空気が、釣りへの意欲をかき立てる。
会長は、実績のあるスピナーの3mをユニットで結びつけている。
私も迷わず、14番のエルクヘアカディスをティペットに縛りつける。
短時間だったが、この日も渇水の尾前川は、私たちを温かく迎えてくれた。
会長は満足の20cm級を2匹、私もやっと空中戦をものにして、優しくリリースした魚たちを見送った。
私たちはさっさと荷物をまとめ、たくさんの魚たちとめぐり会えた美しい谷川に別れを告げた。
ほどよい疲れと森林の空気が、林道を走る車の中で何となく懐かしく感じられた。
そして、私の四輪駆動車は、長く、自然林に包まれた椎葉林道を北へ向かって軽やかに駈けぬけるのだった。