待ってろよ、魚たち。
著:たくみ けいすけ
 
1992年
 第57話 池田湖5
写真055新しい年を迎えて二日目の夜、会長がニッコリ笑ってやって来た。

今年も、懲りない二人の池田湖行きがやってきた。

私も会長も、家族から「あんな遠くまで、正月早々何をしに行くの」と、散々「行くな」と言わんばかりの言葉を浴びせられたのだが、気の合うもの同志。

会長の笑顔の奥にあるものが、私には分かるような気がした。

そして、タックルをトランクに積み込み、私たちは真夜中の高速道路を突っ走った。

目指すはフィッシングパラダイス、池田湖「パラダイス」前である。

到着後、私たちは何も見えない朝マズメ前の池田湖を眺めながら、この地に立てたという安堵感を味わった。

仮眠をとり、朝一番のキャスティングに心躍らせた。

「何とか一匹釣りたい」「誰かが釣った瞬間でもいいから、見てみたい」「今年こそは―」等と、陸揚げされたマスの姿を間近で確認したいものである。

それと、今回の池田湖で私たちは一つの作戦を考えていた。

大した根拠もないのだが、私たちにとって唯一魚を目撃することのできた、このパラダイス前以外には移動せず、ここだけを二人で集中的に攻撃しようというものだった。

陸地の草原に椅子を二脚セットし、私たちは一日中、池田湖を眺めながらコーヒーを飲み、キャスティングを試みた。

妄、いつの日かマス族とめぐり会える日まで、頑固にこのスタイルを変更する気がしなかった。

1月2日、この場所で55cmが上がったらしく、私たちにはもうここしか行き場所がなかった。

一日目は、幾分やる気が上回っていたのか、私たちは笑顔で元気に健康的なキャスティングを繰り返した。

結局、湖には何の変化もなく、二人ともただスプーンを泳がせるだけに終わった。

さて、江川ダムでのルアーキャスティングをやめた私だったが、やはり、この湖では獲物優先である。

しかしながら、何の反応もない時のルアーキャスティングは、何となく空しい気がする。

次の日は、練習してきたフライキャスティングをパラダイス前で試してみようと思いながら、私はバックスペースを確認し、この日の宿へ向かった。

二日目、私たちは迷うことなくパラダイス前へと車を走らせた。

睡眠も十分にとり、あと一日しかないと思うと、自然に真剣にならざるを得ない。

午前6時半、私たちは大きな夢を乗せてキャスティングを開始した。

水面は波ひとつなく、不気味な程静かである。

空は快晴。

ポンプ小屋方面の山の稜線付近が黄色く光っている。

黄緑色と水色を混ぜ合わせたように空は輝き、その光が私たちの前に広がる湖面を、だんだん淡いグリーンに染め上げていく。

短い朝マズメのキャスティングに、気分的にも小休止の時がやってきた。

会長はさっさとストーブに火をつけ、香ばしいコーヒーを入れている。

さて、フライキャスティングの方だが、飛距離は15〜18ヤードといったところだろう。

伸びていったつもりのフライラインだが、何度やっても足元に山ほどのランニング部分がコイルしていて、なかなかロッドのガイドを通過してくれない。

フルラインのキャストなんて夢のまた夢である。

ロングディスタンス用に設計されているはずのウェットフォワードラインをうまく操れない。

むきになって力んでしまうと、ラインの形状だけでなく、リーダーやティペットには三つも四つもノットが発生し、肝心のフライも真っ直ぐ伸びていってくれない。

分かっていたはずなのに、私はグリップを強く握りしめ、自分の利き腕だけのパワーでフライを遠くへ運んでやろうと懸命になっていた。

すつかり明るくなった頃、レストラン「パラダイス」も店を開け、正月特有の音楽がスピーカーから流れてきた。

満開の菜の花のカーテンをバックに、大勢の観光客が記念写真をとっている。

南国の暖かい冬の太陽は、視界の中の湖を明るく照らし、人の波は、私たちの背後を行ったり来たりしている。

早朝からの疲れも、私たちの身体をだんだんしびれさせ、二人とも約束していたかのようにコーヒータイムへとなだれ込む。

しばらく私たちは、深く埋もれるように椅子に腰かけ、ただ黙って湖を眺めていた。

全く魚たちの気配を感じさせない時間が流れ始めたような気がした。

何本煙草に火を付けただろうか。

写真058ふと、左手の階段付近に目をやると、長めのブーツとパンパンに膨れたベストで身をまとい、ゆっくりこちらの方に近づいてくる男がいる。

そして、彼は湖岸の砂地に足を止めると、リールからフライラインを静かに引き出し、キャスティングを開始した。

刺激を求めていた私たちは、彼の美しいラインコントロールに目を奪われた。

25ヤード程だったと思うが、彼は軽いタッチでスローなロッドワークを繰り返し、ループは直線的に力強く飛行していくのだった。

おまけに、リーダーはきちんとラインの先の水面をとらえ、失速することなくストリーマーへ力を伝えた。

私は、煙草をふかすことも忘れ、彼のキャスティングに見とれていた。

多分、私の中で時間が確実に止まっていたことは言うまでもない。

私にないものを、私は見てしまったのである。

憧れのフライフィッシングが、目の前で展開されていたのである。

私たちは昼食を済ませ、置きっぱなしにしておいた二脚の椅子の近くで、再びキャスティングを始めた。

太陽は、見上げる程の高さまで達している。

風もなく、草むらで昼寝するにはもってこいの陽気であった。

早速、会長はスプーンの超ロングキャストを開始していた。

私は先ほどの男性のキャスティングを思い起こしながら、一投一投のキャスティングに自己評価を下し、懸命なラインコントロールを重ね続けた。

私の頭の中に、長いブーツを履いた男の動きが映し出されている。

男の姿が消え去らないうちに、私は男の動きに一歩でも近づこうとしていたのだった。

驚きは、突然やってきた。

「ニジマスだ!」何と、私の下手くそなキャストとリトリーブに40cmはあろうか、美しいレインボーがくっついて来たのである。

ヒットこそしなかったものの、視界の先の水中から興味を示して、イエローテールの8番のストリーマーを追いかけてきたのだ。

もう、フライを引くことのできない、じれったい近距離の浅瀬で、その魚は静止し、じっとこちらの方を見ている。

動くこともできず、フライもこれ以上動かせない私にとって、息の詰まるような瞬間である。

私の視線だけは、ニジマスの全身を捕らえて離さない。

私の固まりきってしまった身体をさらに凍らせ、ニジマスは見えない水中の暗闇の向こう側へとゆっくり泳ぎ去ってしまった。

驚きは瞬時に過ぎ去り、しばらく私は、余りにも突然の衝撃に戸惑いを感じていた。

また予期せぬ出来事というのは、今までの疲労感を忘れさせてくれるものでもある。

私は、俄然キャストに熱が入ってしまい、休むこともなくダブルフォールを懸命に繰り返した。

かつて、こんなに長い時間、自分自身ロッドを振り続けたことがあっただろうか。

フライリールに8番ラインを巻き納めたのは、日も沈みきった午後6時を過ぎていた。

会長は、草むらにセットしていた椅子やタックルを車にしまい込み、階段の横の手すりにもたれ、のんびり私を待ってくれていた。

もう、辺りには誰も釣りをしている人はいない。

彼は、じっと遠くから湖や私を優しく見つめていてくれたに違いない。

徐々に私の気持ちも普通の状態に戻ったのか、重い足取りとともに肩や腰に鈍い痛みを感じ始めた。

そして、釣具をトランクに詰め込み、車のハンドルを握った時、私の手の平に激痛が走った。

見ると、右手には数カ所に膨れあがったマメができ、激しく潰れていたのである。

変わり果てた手の平には、握りしめる力さえ残っていなかった。

夜、私は傷テープを薬局で購入し、手の平を治療した。

しかし、簡単に痛みが取れるような状態ではなかった。

二重に手袋を着け、何とか痛みに堪え、私は三日目の朝のキャスティングを行った。

しかし、私たちの期待と幻想は、もろくも呆気なく砕け散ってしまうのだった。

フライフィッシングも、そして一匹のマスを手にすることもなく、私たちにとって、またもや至難の業であることを改めて認識するのだった。

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